通話記録を付ける

私は「自分がどれほど携帯電話を使っていないか」を数字で確認したいと思ってきた。2007年には「年度始めの4月から記録をつけよう」と思い、ブログにもそう書いた。が、これは挫折した。通話時間まで記録しようとして、あまりの面倒くささに匙を投げたのだった。

その後もずっと「いつかは……」の思いを抱き続けてきたが、ようやく昨年から記録をつけ始めた。今度こそ重い腰を上げられるよう、シンプルに発着信の件数のみの記録とした。

2011年1月から2012年2月までの合計で、発信35回、着信30回。これは予想を大きく上回る数字で、率直にいって驚いた。東北地方太平洋沖地震のときに実家へ何度も電話をかけたのが数字としては大きいが、それを抜きにしても、発着信ともにゼロ回だったのは2011年5月しかない。

なるほど、かつて社員寮の管理人さんに「電話の取次ぎは手間だから自分で電話を用意してほしい」とお願いされたのも頷ける。たった一人の社員のために、年に30回も電話の取次ぎなんてやっていられない。

スマートな記事、無骨なタイトル

私が参考にするには知的水準が高すぎるブログなんだけど、「人目を引くタイトルのつけ方」に忠実なのが、個人的には好印象。そこはカッコつけずに泥臭くいきます、みたいな。「いいもの」をきちんと大勢に届けるのって、やっぱり大変なんだな。ま、大勢に届けたい情報を持っていない私には、関係ないな。

Evernoteとか使ってる人は、きっとこういうページとかを入れてるんだろうな。私はというと、こういうのは読んだそばから忘れていくのを「よし」としているので……。ザッと読んでみて、「こういうチートシートをことあるごとに参照したら役には立つだろうけど、人生、上を見てもキリないし、どうでもいいな」と。

テレビの生活情報番組なんかを見れば役に立つ情報はいろいろ得られるが、私はメモを取ったりしない。せっかく番組を見たのだから、ちゃんと先人の知恵を吸収して、イザというときに活用したら……って、結局さ、そうやって頑張って生活を改善する意義を感じていないんだよね。

だったらどうして読書猿さんの記事を読むのかといったら、やっぱり漠然とした不安があるからなんじゃないかな。あるいは、何か夢を見てる。で、読んでみて、「あー、この内容なら今日も読み捨てで十分だな」って安心するわけ。

たぶん、どんなに立派なことやすごいことが書かれていても、結論は同じなんだと思う。中身を確認しないと不安、というだけ。不安には根拠がないので、中身を見たら、それだけでホッとする。

「捜査」や「逮捕」の重大さがもっと薄れてほしい

私は、「捜査したからには何かが出なきゃいけない」なんてプレッシャーは、かけない方がいいと思う。楽しい時間を台無しにされた怒りはわかるし、権力の行使には慎重であってほしい。しかし「疑い」の段階で捜査をしてはいけないとしたら、およそ捜査など成り立たない。

全く根拠なしに捜査が行われたのではないかと疑い、情報収集を開始するのはいい。だが、結果だけ見て前提を決め付けるなら、「想定している悪と自分自身に何の差があるのか」という話になる。警察はいつも予算と人手が足りない役所。何らかの情報提供があって動いたと考える方が、私の感覚では自然だ。しかし、どんな組織にも無責任な人はいるから、理由なく捜査が実施された可能性もゼロではないと思う。それは否定しない。だが究極的には、捜査の空振りは「許容すべき」というのが私のスタンス。

私の中ではこの問題、「逮捕されただけで人生オシマイ」といったあたりと関連している。私たちが少ない情報で他人を決め付けることをやめない限り、そうした状況は変えられない。そして、「安直に決め付けない」姿勢は、警察に対しても同様に適用されるべきだ。「疑う」が「決め付けない」ことが大切。

ともあれ、警察は捜査の過程で多くの人を傷つけ、また経済的な損害も生み出すことになる。現状は改善されるべきだが、将来的にもこうした問題がゼロになることはない。個人的には、少なくとも金銭に換算できる部分については、捜査による様々な損害について積極的に補償すべきだ(そのために必要なら増税を受け入れていい)と思っている。

トレードオフ

1.

はてブでは、手法はともかく主張そのものについては、高木さんの側に与する人が多いみたい。

高木さんの論理には多分、隙がないのだろう。でも私は、高木さんの前提に賛成しない。だから、高木さんの主張にも賛成しない。なお、現行法に照らしてどうなのか、といったことは脇に置く。それはいま、私の主要な関心事ではないからだ。

私は、とくにIT系の話題で、「問題が起きない仕組みを作れ」という主張が強く支持されるのが気に食わない。これはしばしば「できることはやっていい」という主張とセットになっていて(ちなみに高木さんはこの立場には否定的だと私は認識しています)、ますます気に食わない。

焦点は「たかがPASMOの利用履歴」であって、不正利用を社会的なルールによって縛れば十分だと私は思う。ようするに、利便性を犠牲にしてまで、プライバシーの侵害を「未然に完全に防ぐ」ことを要する問題ではないのではないか。ルールを踏みにじる少数の不正な利用者に対して、損害賠償請求なり何なりで対処していけばいいことだと、私には思える。

高木さんはPASMOの番号と氏名、電話番号を把握しているタイムズ社が、顧客のプライバシーを覗き見ることが「可能」な仕組みを批判されている。私は、「可能」であることを問題視しない。賃貸住宅に暮らしている人は、いつだってマスターキーを持つ大家に家の中を除き見られる可能性があるわけだが、そっちは多分、気にしないわけだろう。だったらどうしてIT系の話でばっかり「可能性すら許せない」となるのか。世の中、そういう方向にいくべきではないと思う。

「できる」けど「やってはいけない」ことは、世の中にたくさんあるではないか。私が昔から使っている例だが、万引きだってそうだ。カジュアルな万引きを完全に防ぎたければ、自動販売機方式を徹底すればいい。購入前の商品に消費者が手を触れられないようにしたらいい。「万引きできるのはおかしい」といって、そういう世の中になるのを望むのと、PASMOの利用履歴をネットで閲覧できる仕組みをやめろというのは、私にとっては同列である。

こう書くと、あれこれ「違い」をご説明してくださる方が出てくるのかもしれないが、ようするに私は「あなた方の仰る「違い」を「議論を左右するような本質的な違い」だと認めない」といっている。

賃貸住宅のマスターキーは、しばしば配電盤とかに無造作に「隠されて」いる。それは何故かといえば、不動産会社が見学者を案内する際、いちいち(10km以上離れた場所にいる)大家のところへ鍵を取りに行くと、限られた時間で多くの物件を内覧することなど不可能だからだ。近場の引越しならいいが、遠く離れた土地まで下見に出かけて、1日がかりで2〜3件しか内覧できないのでは疲弊する。逆にいえば、その程度の利便性のために、少なからぬ人々が、プライバシーその他の様々なリスクを甘受して生活を送っているわけだ。

ある人のPASMOの番号と、氏名と電話番号を知っている第三者が、PASMO利用規約を無視して勝手に他者のPASMOの利用履歴を閲覧したとする。さて、悪いのはPASMOなのか。繰り返すが、現行法に照らしてどうなのか、といったことは脇に置く。私は、PASMOの仕組みは、悪用のリスクと利便性を天秤にかけて、社会的に許容できるものだと思う。私は、この仕組みを守って、悪用する人だけを批判したい。

2.

先日、ねんきん定期便が届いた。ねんきんネットの登録に使うアクセスキーというのが印刷されていたが、他に基礎年金番号がわからないと、ねんきんネットは利用できないのだそうだ。基礎年金番号は前年に届いた定期便に記載されているので、それを見てください、という。とっくに捨てたよ、あんなの。保存しておく価値のありそうな情報なんて、昨年の時点では何一つなかったんだから。

基礎年金番号は、勤務先に問い合わせてもわかるし、日本年金機構へ電話で依頼すれば郵送してくれるともいう。でも、説明を読む限り、そこまでして利用する価値のあるサービスじゃないんだよな、ねんきんネットなんて。ねんきん定期便を捨てても困らないようにするためのサービス、という感じ。

アクセスキーには有効期限があるそうなので、私は今年の定期便も捨てた。来年の定期便にも、きっとアクセスキーしか印刷してないんだろう。で、私はまたそれを捨てる。繰り返すけど、ねんきんネットなんて、基礎年金番号を調べる手間に見合わない情報しか提供してくれない。なので、日本年金機構が今年度と同等のプライバシー保護方針を堅持する限り私は、退職して(いったん会社に預けた)年金手帳を再び手にするまでずっと、ねんきんネットとは無縁であり続けるだろう。

なんかね、こういうのって、アホらしいと思うわけ。注力すべきは、ルール違反をする人を捕まえて(悪の程度に見合った何らかの)罰を与えることではないのか。悪いことを考える人がいても、プライバシーの侵害が絶対に起きないようにしようと頑張って、そのためにサービスの利用の敷居が高くなって、それで私が「だったら使わない」となるのって、力の入れどころが違うんじゃないか。

3.

自動車の衝突安全設計とかを全否定したいわけではない。事故を起こしたドライバーを厳罰に処していくだけでは交通事故の死者は(十分には)減らせなかった。でも、プライバシーの保護に関しては、「高木さんの設定している安全のハードルは高すぎる」と私は思う。

まあ、高木さんとしては「事前のリスクに関するアナウンスが足りないと指摘しているだけ」なのかな、とも思うけど(つまり、PASMOの仕組み自体を全否定しているわけじゃない)。ただ、そうだとしても、「(高木さんが納得できる水準での)リスクの広報など現実には不可能なのだからサービスを停止すべきだ」と(事実上)踏み込んでいるわけで、形式的にはどうあれ、やはり実質的には相当に考え方が違う。

自動車だってさ、「自動車の前を人が歩いて先導しなければならぬ」という赤旗法は、廃止されたわけじゃないか。赤旗法があれば、死亡につながるような交通事故の95%は排除できそうなのに、それでも廃止。安全は絶対ではなく、ある程度は利便性に譲る部分もあるわけ。命に関わる問題ですら、そうなんだから、「たかがPASMOの利用履歴」くらい、利便性の方に相当程度まで寄せていいと思うわけ。

やっぱりSUICAの利用履歴がネットで見れたら、便利だよ。いまさら、駅でSUICAを秘密のパスワードとセットで再発行してもらうとか、そこまでしたくない。そういう面倒なしに、利用履歴を見たい。

……ん? いや待てよ。たったそれだけの手間なら、やっぱりSUICAを再発行してもらってもいいかな。むー。

悪いことができるようになっているのが悪いのか

1.

私は基本的には「悪いことをする人が悪い」と考えるので、Gumroadを悪用する人がいるなら、「その人が悪い」という。具体的には例えば、Gumroadが販売されている商品についていちいち「他者の著作権を侵害していないか」を審査するような仕組みが必要だとは考えない。

Gumroadは利用規約(2012年2月11日版)において、>>violate any laws, third party rights or our policies<<を禁止している。Gumroadの利用者は、あらゆる法令、第三者の権利、Gumroadの規則に反することをしてはいけないわけだ。

ならば残る問題は、この利用規約が空文になっていないかどうか。現状、著作権侵害等の相談・通報フォームは整備されていないが、メールでの問い合わせには応じている。あとは著作権侵害事案への実際への対応を見て考えたい。

2.

実際問題、権利者に無断で作られた二次創作あたりは、当たり前のように流通するのだろう。他者の著作権に抵触するタイプの同人誌が大規模に委託販売されている状況、即売会のイベントに万単位の人が集まる状況などから類推すれば、Gumroadだけが潔癖であり続けられるとは考えにくい。

二次創作などであれば、ほぼ間違いなく権利者の許可を得ていないと考えられる商品も、第三者による通報だけでは基本的に消えないだろう。

それは問題といえば問題なんだが、私の感覚では、まずデッドコピーの根絶が課題だと思う。例えばニコニコ動画の場合、ジャンル別の日間トップ10にCD音源を丸ごとコピーした動画が顔を出すことがある。チェックコストが有限なのはわかるが、これほど目立っている動画は、自主的に権利関係のチェックをしてほしいと思う。それが蟻の一穴になって際限なくチェックコストが膨らみかねない……という懸念はわかるが、通報待ち限定というスタイルでよいとは、私は思わない。

Gumroadにおいても、デッドコピーを全てシャットアウトするのは無理だと思うが、デッドコピーがたくさん売れている状況が明らかになった場合、それを放置しないでほしいと思う。どこかに線を引いて、とくに問題になっているデータについては、権利者の通報を待たずに、権利処理の仕組みを動かしてほしい。

なお、私は「有料だからとくに悪質」とは考えていない。公式の有料配信だと錯覚させるようなら「とくに悪質」だが、そうでないなら、むしろ有料の方が大勢に広まらないだろうから、実質的には害が少ないと思う。無料で数万人にバラ撒く方が、多くの場合において、実質的な害は大きいのではないか。

3.

Gumroadの話題性を見て即座に日本で開発されたサービスがameroadだ。利用規約や多言語対応などは弱いが、商品の取り扱いと売買の仕組みは本家よりしっかりした作りになっているのがすごい。

いまameroadでいちばん売れているのが岩崎啓眞さんの『イースI・II製作メモ』だ。リンク先を見ればわかるが、その表紙や一部の挿絵には、ゲーム中に登場するキャラが描かれている。これは権利者の許可を得て公開された二次創作のイラストなのだろうか?

個人的には、これは無断で制作・公開されたイラストだと仮定した上で、「『イースI・II製作メモ』のameroadでの流通は黙認されてほしい」と考える。だが、「権利者が削除申請をしたならば、速やかに削除されるべき」とも考えている。

なお『イースI・II製作メモ』にはゲームの画面写真もいくつか入っているが、それらは引用の要件を満たしていると私は判断した。

向き合う

以下、リンク先とは、ほぼ無関係。

1.

私の母方の祖父は、脳内出血を起こした翌日に亡くなった。前の晩から祖父は無口だったそうだ。そうして駐車場の集金に出かけ、昏倒して亡くなった。死後に日記帳を開くと、前の晩から急に字が乱れていた。それで、脳内出血が起きたのは亡くなる前日だったことがハッキリした。

祖父の死について、祖母は「ピンピンコロリの夢を見事にかなえた大往生」と評した。祖父の実母が何年も寝たきりで家族の手を煩わせたのを見てきたので、「ああなるのは嫌だ」との思いを強く強く持っていたのである。

その祖母は、癌の手術と闘病を拒否して亡くなった。癌が再発した場所のひとつが耳であり、手術すれば片目と片耳を失うと知った祖母は、「これで手術を受けない理由ができた」といった。「痛いのとつらいのは嫌だ」とだけいい、癌の痛みを軽減する治療だけを受け、最後の1年半のほとんどを自宅で過ごした。

祖母の死亡診断書によると、死因はすい臓がんとなっていた。癌を放置したことであちこちに転移し、最終的に「すい臓がんが最後の一押しになった」のだそうだ。

2.

父方の祖父は入院生活が長引いている。その切っ掛けは脳溢血である。祖父が脳溢血を起こした日、たまたま孫の一人(私のいとこ)がきていた。

祖父のろれつが回らない様子に気づいて、孫は「病院へ行こう」といった。だが祖父は、「大丈夫だ」といって病院へ行くのを拒絶した。それで喧嘩になった。そして半日後、祖父は足腰が立たなくなった。祖父は「寝れば治る」といったが、もう抵抗できない状態だったので、孫が無理やり病院へと運んだ。

それで祖父は一命を取り留めたのだが、果たしてそれが良かったのか悪かったのか。もう闘病生活は2年を越えている。3回ほど「もうダメかも」と連絡がきたが、そのたび緊急手術などが成功し、助かった。

歩けない、喋れない、毎日毎日タンで息が苦しい。寝てるのか起きてるのかもよくわからない。タン吸引のときだけは、痛くて苦しくて悲鳴を上げる。「担当者が下手なんじゃないか」という声もあったが、入院先が変わってもその点に違いがなかったので、医療不信の方も「そういうものなのか」と諦めた。

祖父を助けた孫の前ではみな口をつぐむが、お見舞いに訪れた親族が顔を合わせると「自分のときは死なせてほしい」「幸運の女神には後ろ髪がない」という会話になる。ピンピンコロリのチャンスは絶対に逃してはいけない、という意味である。神様は、そう何度もチャンスをくれはしない。

3.

「あんなに健康に関心があって、名医名鑑みたいな本を眺めるのが大好きな人が、どうしてあのときに限って病院へ行くのを嫌がったんだろうか」
「虫の知らせでもあったんじゃないの」
「でも、足腰が立たないのを見てしまったら、いくら当人の希望でも放っておいたら犯罪になりそう」
「いくらピンピンコロリのためでも、家族が犯罪者になるのはダメだね」
「言葉が出せなくなると、手術を自分の意思で拒否できないのが困る」
「家族から見たら生き地獄だけど、本人はそれでも生きたいのかもしれないし、家族は手術に同意するしかない」
「これだけ苦労したんだから、先生は期待しないでほしいと仰ってたけど、また元気になってほしい」
「努力が報われないのが人生だよ」
「やっぱり自分は、倒れたらそのまま死にたいな」
「今日でもいいの?」
「……」

いい加減、こうした会話にも飽きた。

複アカウントを使い分ける思考実験

数年前に私が妄想していたのは、「mixiも複アカウントを認めたらいいのに」ということだった。

んで、学校別のコミュニティを全て「公式」に立てる。それから日本中の学校に営業をかけて、過去の卒業生はもう仕方ないとして、在校生とこれからの卒業生全員にアカウントを作ってもらうわけ。それで、同窓会事務局の業務は全部、mixiに移行するの。同窓会名簿の更新が個人情報保護云々で止まってしまい、同窓会事務局はどうにもならなくなっている。mixiなら、そこに食い込んでいけるのではないか。

本名で趣味や生活の日記を書いたり、学校と無関係のコミュニティに参加したりするのは非推奨として、そうしたプライベートな活動はハンドルネームでやってもらうことにする。学校で作ったアカウントでは「先生に見られて不都合のないこと」だけやってもらう。

……出身小学校のコミュニティの参加者数が結局、99人で止まってしまった。同学年に2〜3人しかいない状況だから、みんな話すことがない。これでは、物珍しさの先に何もなくて、コミュニティが死ぬのは当然の帰結。卵が先か、鶏が先か。この場合、卵が先だろうと私は思った。

ただ、1人1アカウントだと、上記のアイデアは成り立たない。だから複アカウント制にする。一切の検索を拒否する設定も必要だろう。

補記:

高度情報化社会になったのに、リアルの人とのつながりがなかなかサービス化しない。個々人が管理するアドレス帳と、組織内のアドレス帳が電子化されただけ。そこのところがどうにかなったらいいのに……。

以前、知人と会ったとき、そんな話をした。彼は「だからさ、みんな、そういうのは嫌だったんだよ、本音のところではね」という。「あー、そうですか……」と私。卒業生が、学校のことなんかきれいサッパリ忘れて、ネットでつながらないローカルの書類でしか卒業生だとわからないのを基本とするのが、人々の選んだ自由だったということ。

つながりたい人だけが、あえてmixiとかで出身校を登録する。当然、そんなことをするのは1980年生まれの世代でさえ高校で10%、小中学校では5%にも満たない。デフォ登録で、自由意志で削除としたら、この数字は全然違っていたかもしれないけど、そういうやり方に直感的に嫌悪感を抱くのが多数派か……。

というわけで、これはそこで終わった話なんだけど、思い出したついでに書いた。