「ご祝儀お断り」がもっと増えてほしい。

香典お断りの葬式や、ご祝儀お断りの結婚披露宴が、次第に増えてきている。そういうの、私は大賛成。多様な文化や価値観が並存する世界では、案内状だけ見れば「何をどうしてほしいか一通りわかる」ようにするのが親切というもの。
「お札が偶数なのはダメ」とか、バカらしい。100年の歴史もない、当代流行の迷信に過ぎぬ。六曜(大安とか仏滅とか)が庶民の「常識」になったのも戦後の話だが、冠婚葬祭の「常識」の大半は、その手のもの。迷信を「常識」と言い換えて、社会を不自由にしている。
釈迦は六曜のような迷信を明確に否定したのに、仏式の葬儀を友引に行うのをバカにする人がいる。「迷信におもねるのは迷信を強化する片棒を担ぐのと同じ」と説明をしても、「それでも非常識はダメ」といって、にべもない。それもまたひとつの立場だとは思ったが、「ここは折れない」と決めた。この程度の意見対立で縁遠くなるなら、所詮それだけの付き合いだったということだ。
私が参加した中でいちばん簡単な葬儀は、「火葬場に集合して15秒くらい黙祷するだけ」だった。服装については「喪服不要。普段着でお越しください」となっていた。遺骨拾いは自由参加で、忙しい人は焼き上がるのを待たずに帰ってもOKだった。
火葬場ごとに運営の仕方は違うと思うが、近年は遺骨を拾っても入れる墓がないケースが増えたためか、「よく焼いてください」とお願いすると、ほとんど灰しか残らない状態にしてくれる。その葬儀では、喪主がほんのひとかけらだけ拾って小瓶にいれ、残りは火葬場引取りとしていた。
感想は人それぞれだと思うが、私は「これはいい。私も自分が主催する葬儀はこうしたい」と思った。ちなみにこの葬儀、手作りではなく葬儀屋さんに丸投げ。要望と連絡先一覧を伝えた後は、案内状、駅からの送迎バス、棺、棺に入れる花の手配などは全てお任せとし、費用は数十万円という。

補記:

現代の日本で普及・定着している様々な迷信の中で、六曜は相当にわかりやすい馬鹿馬鹿しさを抱えている。当て字に引きずられて意味が創作されていることなど、私は初めて知ったとき、脱力感さえ覚えたものだが……。