人工中絶

以下、リンク先の記事とは、まるで関係がない。最初は関係ある話をしているつもりだったが、読み返してみたら無関係だった。

1.

私は、母体保護法を「書かれている通り」に運用することに、賛成の立場だ。

第十四条  都道府県の区域を単位として設立された公益社団法人たる医師会の指定する医師(以下「指定医師」という。)は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる。

一  妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの

二  暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの

2  前項の同意は、配偶者が知れないとき若しくはその意思を表示することができないとき又は妊娠後に配偶者がなくなつたときには本人の同意だけで足りる。

現状はどうかといえば、「死んだ方がマシな人生はある」といった発想で、「子どものためを思って」という人工妊娠中絶が少なからず行われている。私も「死んだ方がマシ」はあると思うが、当人の判断をできる限り尊重したい。

あるいは、「死んだ方がマシな人生はある」という点に同意されるなら、自殺や安楽死を積極的に認めてもよいはずだ。出生前の命を周囲の人々の判断で殺すのはよくて、生まれてから本人の意志に基づいて死ぬ(のを手助けする)のはダメだなんて、私には奇妙な価値判断に思える。

私の感覚では、日本の社会は人工妊娠中絶に対して緩く、自殺や安楽死に対して厳しい。人の生死が、当人の意志より社会の空気を優先して判断されているかのようだ。

2.

妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるものという規定をよく見ると、育児について記載がないことに気付く。その理由は、生まれた子どもは里子や養子に出すことができるからだ。

しかし実際問題、妊娠の継続と分娩の負担だけを考えて人工妊娠中絶が選択されるケースばかりではない。出産より育児の困難を真の理由とする人工妊娠中絶も、かなり多い。

私は育児の困難を理由とする人工妊娠中絶には賛成しない。実親ではなく里親や養親に育てられることが、死ぬよりひどいことだとは思えないからだ。もちろん、人によって判断は異なるだろう。だが、実親に養育されなかった人の大多数は、「生まれる前に殺してほしかった」とは思っていないはずだ。

あるいは、親の視点から考えてみても、子どもの命を絶つことが、子育てを他人に任せることより本当にマシなのか、私は疑問なしとしない。

半ば空想論にはなるが、私は「子どもを自分で育てるかどうかの判断を自由にできる社会」を待望している。「自分の手で子どもを育てたい人」だけが「自分で子どもを育てる」選択をする、そうでない親の子は、社会が育てる、というような。

ひとつの理想に多様な人格を押し込めるから、無理が生じる。育てたくないなら、育てなくてよい。そのことを誰も責めない。また「自分で育てる」ことが偉いわけでもない。それは単に選択である。自由である。そういった社会の方が、より多くの人が幸福になれるのではないか。

3.

私の楽観の原点にあるのは、母方の祖父が養子に出されて幸福に育ったことだ。祖父の実母は子沢山だったので、子のない家へどんどん養子を出した。「余っているところから、足りないところへ」という曾祖母の言葉が、現代に伝わっている。祖父の養家と実家は近所にあり、祖父は養家を「自分の家」としつつも、実の兄弟姉妹たちとも仲良く遊んで育ち、とくに長兄には晩年まで何かと世話になり続けた。

祖父の話から私が感得したのは、「親子とはこうあらねばならぬ」といったことの多くは、「思い込み」に過ぎないということだ。また、かつての日本社会は、現代よりもっと人生の諸事情に対して柔軟だった。(少なくともある面においては)ひとつの理想を、多様な事情を抱えた個人に押し付けることがなかった。

「余っている」子を養子に出した曾祖母は、誰に責められることもなく、むしろ多くの人に感謝され、尊敬された。婦人会などで要職に推され、地域の諸問題を解決するため走り回った。「特別な理由など何もないのに、産んだ子を自分で育てない」ことがハンデにならない社会だったのである。

祖父の養親は「我が家の宝」といって祖父を慈しみ深く育てた。不幸にして養親は早世したので、祖父は実家の長兄の支援によって学校を卒業した。祖父は陸軍で薬剤師の資格を得たが、養親の営んでいた薬局の再興は「きちんと学問を修めた薬剤師ではない」と最初から諦めて、保健所に勤めた(保健所ならいいのか?)。

祖父は養親の供養と実母の長寿祈願のため、庭先に小さな地蔵尊を興した。半畳の小さなお堂には、3体のお地蔵様が仲良く並んでいた。願いが通じたか、曾祖母はたいへん長生きし、私も会って話すことができた。

曾祖母が天寿を全うして数年後、祖父も亡くなった。実家の兄たち、養子に出された兄弟たちなど血縁者が多く集まり、故人を偲んだ。

4.

人間には、可能なはずなのだ。

  • 子育てを赤の他人に任せること
  • 血縁のない子を慈しみ深く育てること
  • 子どもが複数の家族を持つこと
  • それらを自然に受け入れる社会をつくること

ある人にできたことだから、他の誰にでもできることだ、とはいわない。現代の多くの日本人には、難しいことなのかもしれない。だがしかし、「ありえない」「不可能だ」といった決め付けだけは、受け入れられない。無益な固定観念は打ち捨て、もっと自由に、柔軟に、人は幸福を追求していくべきだ。

曾祖母を非難する者が一人もいなかったか。そんなことはないであろう。だが祖父の周囲の人々は、不自由な思想を退けた。私もまた、そうありたいと願う。

ひとつの理想だけを「正しい」と思うから、その理想から外れた自分を不幸に感じる、という構造がある。「実親が子育てをしないのは悪いことではない」社会であれば、「親が自分を手放した」ことが深い心の傷となる可能性は低いだろう。

私たちの語る正義や愛情といった名の偏狭が、いらぬ不幸を生み大きく育ててはいないか。

5.

個別の事例に焦点を当てて話を展開するなら、どんな結論だって導くことができるだろう。この批判は、もちろん私自身にも当てはまる。

ただ、命を奪うというのは、きわめて重大な判断だ。取り返しがつかない。無責任でも結論の先延ばしでもよい。何かしら疑問があるなら、殺さないでほしい。この子が不幸になるという判断は確実なものか。あるいは確実に不幸になるとしても、死ぬ方がマシというほどの不幸なのだろうか。どうしてもいま、判断しなければならないのか。当人が成長し、自ら判断を下すまで待つことはできないか。

「もう子どもは要らぬ」と曾祖母が人工妊娠中絶を選んでいたら(当時は法的に不可能だったので現実味を欠く話だが)、祖父の愉快な人生は存在しなかった。もちろん私だって生まれていない。たったひとつの事例であっても、私個人としてはこだわりたい所以である。

宅配ボックス

1.

でもね、最近ちょっと、「Amazonはもちろん便利なんだけど、Amazonって、ちょっとめんどくさいよなあ」とも思っているのです。(中略)注文したものを、家で受け取るというのは、家を仕事などで空けがちな人間には、けっこうめんどくさい。

いま私の賃貸物件探しで外せない条件になっているのが「宅配ボックスがある」こと。Amazon楽天やコミックレンタルなどの配送先は最初から住所欄に「宅配ボックス」と入れて、私が在宅であろうとなかろうと宅配ボックスへ届くようにしています。
宅配ボックスひとつで私はすごく幸せになれたので、一軒家などにお住まいの場合、自分で宅配ボックスを買って設置してもいいんじゃないかと思う。
とはいっても、私の場合、最高で1日に4つ届いたことがありました。メール便、宅急便、佐川、ゆうパックの4つ。8つあるアパートの宅配ボックスの半分を、一時的に占拠。それでもまだ空きがあってよかった……。こういう場面まで想定して一軒家に4つも宅配ボックスを設置するとか、あまり現実的な感じがしない。

2.

むー、34cm×36cm×50cmで約6万円か。しかも温度条件が-5℃から+40℃まで。

そういえば前いたアパートでこういうの使ってる人いたなあ……。玄関前の共用の通路にこんなのを出して邪魔だとは感じたけど、「毎日じゃないし、まあいいか」と思って、私は黙認してた。

「ご祝儀お断り」がもっと増えてほしい。

香典お断りの葬式や、ご祝儀お断りの結婚披露宴が、次第に増えてきている。そういうの、私は大賛成。多様な文化や価値観が並存する世界では、案内状だけ見れば「何をどうしてほしいか一通りわかる」ようにするのが親切というもの。
「お札が偶数なのはダメ」とか、バカらしい。100年の歴史もない、当代流行の迷信に過ぎぬ。六曜(大安とか仏滅とか)が庶民の「常識」になったのも戦後の話だが、冠婚葬祭の「常識」の大半は、その手のもの。迷信を「常識」と言い換えて、社会を不自由にしている。
釈迦は六曜のような迷信を明確に否定したのに、仏式の葬儀を友引に行うのをバカにする人がいる。「迷信におもねるのは迷信を強化する片棒を担ぐのと同じ」と説明をしても、「それでも非常識はダメ」といって、にべもない。それもまたひとつの立場だとは思ったが、「ここは折れない」と決めた。この程度の意見対立で縁遠くなるなら、所詮それだけの付き合いだったということだ。
私が参加した中でいちばん簡単な葬儀は、「火葬場に集合して15秒くらい黙祷するだけ」だった。服装については「喪服不要。普段着でお越しください」となっていた。遺骨拾いは自由参加で、忙しい人は焼き上がるのを待たずに帰ってもOKだった。
火葬場ごとに運営の仕方は違うと思うが、近年は遺骨を拾っても入れる墓がないケースが増えたためか、「よく焼いてください」とお願いすると、ほとんど灰しか残らない状態にしてくれる。その葬儀では、喪主がほんのひとかけらだけ拾って小瓶にいれ、残りは火葬場引取りとしていた。
感想は人それぞれだと思うが、私は「これはいい。私も自分が主催する葬儀はこうしたい」と思った。ちなみにこの葬儀、手作りではなく葬儀屋さんに丸投げ。要望と連絡先一覧を伝えた後は、案内状、駅からの送迎バス、棺、棺に入れる花の手配などは全てお任せとし、費用は数十万円という。

補記:

現代の日本で普及・定着している様々な迷信の中で、六曜は相当にわかりやすい馬鹿馬鹿しさを抱えている。当て字に引きずられて意味が創作されていることなど、私は初めて知ったとき、脱力感さえ覚えたものだが……。

「共助」に頼るまいとした結果は

1.

金持ちになっても母親が生活保護を受給し続けていることを看過していた芸人が、テレビやネットで批判されているのだそうだ。
はてブ方面だと「自助→公助」の2段階制を支持する方が目立つ気がする。でも世間では「自助→共助→公助」の3段階制に、まだまだ大きな支持があるように思う。しかし本音ベースでは、「共助より公助の方が精神的にラク」と感じる人が次第に増えつつある。そのあたりの、本音と建前のねじれが生んだ事件ではないかと思った。
もともとは公助に頼ることの方が「申し訳ない」という気持ちが強くて、身内に助けを求める方が心情的に自然だったのではないか。3段階制は、個人にとっても政府にとっても都合がよかったのだと思う。
ところが現在では、家族を頼る方が心理的に負担が大きく、市役所に相談する方が気楽。それは、家族は相変わらず容赦なく感情をぶつけてくるが、現代の市役所は市民の悪意を9割方遮断するからだろう。無論、変わったのは役所だけで、世間は変わっていない。注目を浴び、世間の悪意がダイレクトに伝わるようになると、「共助に頼る方がマシだった」と思い知らされる。
河本準一さんのお母さんは、息子に扶養されるのを嫌がって、生活保護の受給を継続していたのだという。自立心の発露の仕方を誤ったのか、コトの軽重を取り違えたのか……。

2.

かつて私は親に小遣いをせびるのが嫌で、「お金をほしがらない子ども」であろうとしていた。が、物欲は人並みにある。それで、泥棒をした。「えっ!?」と自分でも驚く愚かさだ。しかし思い詰めた人は、ときに善悪の基準を見失い、矛盾を押し通そうとして反社会的な行動を取ってしまう。

「批判すること」と「『消えてなくなってしまえ』と思うこと」との違い

私は虚構新聞が好きで、はてなブックマーク経由で、月に1回くらいまとめ読みしている。ただ、「虚構新聞はもっと批判されないとアンバランス」とも思っていた。

過去に私が書いてきた中では、Togetter批判も、「Togetterは今すぐTwitter API利用規約を守れ」という意図ではない。利用規約は守っていないTogetterは、もっと多くの批判を受けて然るべきだ。さりとて「ルール違反のサービスは今すぐ退場すべき」とは思わない。仮に二者択一ならば、私はTogetterの存続を支持する。

虚構新聞について、私は多くの点で批判側に賛同する。しかし、「だから虚構新聞は廃刊すべき」とは考えていない。「何一つ改善しない」が社主の結論でもよいと思う。思うが、虚構新聞は、そのひどさの度合いに見合った批判を受けるべきだ。何度も何度も、話題になるだび、批判され続けるべきだ。

従来から批判はあった。あったが、割合をいえば、批判は僅かだった。それは正当なバランスではなかったと私は思っている。

……とはいうものの、私自身ずっと虚構新聞批判を書かずにきたし、これからもおそらく書くまい。

補記:

許容≠批判しない
支持≠批判は不当
不支持≠法規制に賛成

マナー違反

「マナー違反」への怒りというのは、「マナーがマナーとして確立している」ことによって増幅される。なので、「それって限定されたコミュニティの中だけの文化でしょ」と周囲が冷淡になれば、小さな不快感が大きな怪物へ育つのを止めることだってできるのではないか。

「自分と違う視点」への想像力

1.

しばらく前に、私がよく読んでいたブログの書き手がブラウザゲームを作って公開した。そのゲームの公開ページには意見・要望掲示板があった。そこに書かれていたプレーヤーの要求は、ザックリまとめると「便利にしろ」「**を簡単にしろ」の2つだった。

単純には、「それが本音というものだろう……」とは思った。しかし何でもかんでも「便利」「簡単」にしてしまうと、「ゲームって何?」ってことになる。コンピュータゲームは、「わざわざ苦労して、客観的には無意味な報酬を得る」という娯楽。苦労や手間を否定して報酬だけ得られるようにしたらどうなるかといえば、「報酬の無意味さ」が浮き彫りになってゲームの根本が崩壊するだろう。

数日もやもや感があったのだが、ふと気付いた。人それぞれ「進んで苦労したいこと」「パスしたいこと」があるものだ。自分が楽しく苦労できる要素だけからなるゲームを欲し、「ここでは苦労したくない」という要素を指摘しているだけ……と考えれば、だいたい理解できる。

わかってしまえば当たり前の話で、長い間もやもやしていたのがバカらしい感じもする。

2.

「自分が面白いと思わない部分は、他の人にとっても面白くないに決まっている」と決め付ける人が多いのにはウンザリ。これはゲームに限ったことではないが、ゲームというのは必要から遊離しているだけに、全ての要素が攻撃の対象となりうるのが面白いところだと思う。「エッ!? それも無駄だっていうの?」と。