食物連鎖

佐渡島のうわさ話と僻地日記(5月2日付)にブックマークを一発消去してしまったという失敗談が載っていますが、どうやったらそんなことができるのだろう、と不思議に思いました。全部ひとつのフォルダに入れていたのかな? 私の場合、MozillaIESleipnirというブックマークの3点保存をしている(ブックマークの増減は必ずSleipnirで行い、変更のたびにMozとIEにエクスポートしているわけです)ので、たとえどれかでブックマークを消してしまっても何ら問題ありません。ちなみに、最近よく使うOperaではブックマークを一切利用していません。個人的リンク集経由であちこち回るだけです。私は個人的リンク集+はてなアンテナ登録サイト以外は定期巡回しないということです。
データ管理の基本は複数の箇所にバックアップデータを置くということです。
閑話休題
5月4日付の記事で草刈の作業中に雉の首を切ってしまう話が出てくる。まおさんはげろげろーっとおっしゃるのだが、そこからふと連想した話。
かつては肉が貴重だった。母方の祖母はしばしば、庭の小屋で飼っている鶏をつぶして鶏料理を作った。本当の親子で親子丼を作っていたわけだ。したがって母は、前日まで小屋の中を元気に走っていた鶏が、首を切られ、吊るされて血を抜かれ、そうして食卓に上ってくるという現実を見つめて育った。これを残酷だと思う方もいるだろうが、食物連鎖の残酷さに目をつぶることこそ、私は本当にひどいことだと思う。残酷なことだと思う。
牧場に私を連れて行った父は、牛の目のかわいらしさをひとしきり語り、そしていったものだ。「この可愛い牛も、最後は殺されて肉だけになって食べられてしまう」
肉は、最初から肉としてこの世に現れたわけではない。もとは命ある生き物だった。その単純な事実を、忘れて生きている人が多すぎる。そんなことを考えていたら、肉なんか食べられないじゃないか、という人がいる。私の答えは簡単だ。だったらあなたは、肉を食べるべきではない。
動物殺しに耐えられなくなり、菜食主義者となる人がいる。だが野菜だって、人に食べられるために生きているわけではない。埴谷雄高は『死霊』に「亡霊宇宙」の挿話を入れ、食物連鎖で結ばれていた生物たちが、死後、自分を食べた相手をたどっては告発するという喜劇的な一場を描いたが、野菜の命を奪って人が生き長らえる構造に耐えられないならば、人は死んだ方がよいと私は思う。
人は無数の命の犠牲があって、そしてはじめて生きていくことができる。こうしたことに無自覚な人を、私は嫌う。無知は罪である。知るべきことを知ろうとしないのは罪である。