ダブルバインド

最近ウェブでのやり取りの中に出てきたダブルバインドという言葉がわからなかったので、調べてみた。なかなか興味深かった。

例えば、上の「自立しろ」という指示を出した場合。子供は素直に「あ、確かにそうだよな」と思って、自分でいろいろと物事を考え、それに沿った行動を起こそうとします。しかし、それがたとえ理にかなった行動であっても、親は自分の思い通りにならない子供に対して腹を立てます。子供を批判することもあると思います。それを聞いて子供は「自立しろって言ったじゃないか」と不平をもらします。親は結局、イライラしながら「悪いとは言ってない」などと言葉を濁し、後には不快な空気だけが残ります。場合によっては、「親に向かって口答えするな!」などと逆切れする親も居るかもしれません。
理にかなった行動にもいろいろなレベルがある。「お菓子が食べたい→お金を持っていない→万引きしよう」これは、理にかなった行動だ。しかし、お勧めできない。やはり、結論部分は「→我慢しよう」などとするべきだろう。理にかなった行動がみな正解とは限らない。理にかなった行動は、しばしば1種類ではない。そのとき、行動を選択する上位概念が必要となるだろう。あるいは、ある考え方において理にかなった行動はひとつしか考えられないかもしれない。それでも、その行動が正解とは限らない。上位概念によって、その自体が否定されうる。
私は矛盾を受け入れるが、そこには2つのレベルがある。矛盾を解消しうる上位概念を認識していながら、あえて諸般の事情によりその概念を解説せず、相手の主張する「あなたは矛盾している」という意見を甘受する場合。そして、自分でも上位概念が見えていない場合。いずれにせよ、私は矛盾したくてしているのではない。結果的に、「一切矛盾しない」という選択肢を選べないのである。しかし、私という人格において価値観は統合されているわけだから、何らかの上位概念があるのだろう。
引用したダブルバインドの例について考える。
子どもは子どもなりに理にかなった行動をするのだが、子どもの価値観とその判断力は、親の期待するレベルに達していないことが多い。だから、子どもが「絶対に正しい」と思った決断は、しばしば親に否定される。このとき、子どもが陥りやすいのが、「いつも自分がしかられるのは、言いつけを守らなかったからだ→今回ぼくは言いつけ通りに自分で考えて正しい行動をとったのだから、しかられるはずがない!」という発想だ。論理展開に瑕疵はないが、前提が間違っている。
親が子どもをしかるのは、子どもが期待にそぐわない行動をとったからだ。「言いつけを守る」というのは、その一事例に過ぎないから、「言いつけさえ守ればいい」わけではない。子どもには、この上位概念が見えていない。だから、自立しろって言ったじゃないかなんていう言葉が、反論になると勘違いする。
さて、子どもに反論されたとき、なぜ少なからぬ親が言葉を失うのか。子どもの混乱を解消するどころか、自分まで矛盾の罠にはまってしまうのか。この悲劇の原因は、親にも矛盾を解消する上位概念が見えていないことにある。「いうことを聞きなさい」と子どもに強制するとき、「なぜ、いうことを聞かせなければならないのか」が頭から抜け落ちている。漠然と「わかったつもり」になって、じつはよく認識していない。認識の正誤は、ここでは問題にしない。認識の有無だけを問う。
人の言葉が、実際、どこまで上位概念を追いかけていくことができるのかは知らない。ただ、多くの矛盾は、上位概念の観点からは矛盾ではない。
ここで一点、注意すべきことがある。上位概念を導入しない限り、矛盾はやはり矛盾なのだ。「矛盾ではない」「いや、矛盾だ」という水掛け論は、説明された上位概念を受け入れるか否か、という問題であることが多い。賢い親は、子どもの主張する「矛盾」を論破してみせる。「自立しろといわれた→自分で判断した→なのにしかられるのはおかしい」という意見には、「ただ自立するだけではダメで、正しい判断が必要なのだ」と反論できる。騙しのレトリックとして、「自立した判断で弱い者いじめをしたら、誉められると思うか?」などといってみるのも有効。しかし思考停止した子どもは、親の失点に固執して、矛盾が魔法のように消えてしまう説明を理解しない。その結果は、親自身も上位概念を認識していない場合と大差ない。
私の抱える矛盾は、皮相的には、「相反する価値観から提出された選択肢のうち、いずれを選ぶか」という問題への回答が、時と場合によって変化するというものだ。あるときには A という価値観を優先する。またあるときには B を重視する。だから、「こないだといっていることが違うじゃないか」ということになる。他人に説明できなくてもいい。自分だけでも納得できるような、上位概念の尻尾を掴みたい。だが、暗闇の中で、彷徨うばかり。